11月24,25日公演予定のオリジナルミュージカル『春のホタル』は、北区のとある小学校で実際にあった先生と児童の葛藤、そして地域との交流や体験から育まれた子どもたちの成長の過程がベースとなっています。
 時を経て、ミュージカルとして生まれ変わった人々の想いや福島潟の歴史を深く知り、もっと楽しむためにコラムを連載します。どうぞみなさまも『春のホタル』の世界をお楽しみください。
                                                (文責:団長)
 ミュージカルの舞台となった場所・歴史・自然
  1.福島潟の自然
  2.太田小学校の取組み
  3.干拓の歴史

 登場人物のモチーフとなった人たち
  4.良寛さま

〜ミュージカルの舞台となった場所・歴史・自然

福島潟の自然》
 
 オリジナルミュージカル「春のホタル」の舞台となる福島潟は、新潟市北区(旧豊栄市)にある湖沼です。周辺の干拓により、面積は当時の30分の1程度となりましたが、現在でも271ヘクタールの面積を有する、新潟県内最大の潟湖です。
 福島潟は、毎年秋にロシアから渡ってくるガンの仲間、オオヒシクイの日本最大の越冬地となっているほか、巨大な一年草、オニバスの生育北限地であるなど、貴重な自然が数多く残されているオアシスです。



 また「日本の自然百選」や「日本の音風景百選」などに選ばれるなど、水辺の原風景や漁業の営みなど、豊な資源を有する場所として、多くの観光客が訪れています。
 国の天然記念物であるオオヒシクイはハクチョウやカモの仲間で、羽を広げると1m60cmにもなる大型の渡り鳥です。毎年秋の稲刈りが終わった9月下旬頃から徐々に福島潟へやってきます。ピークになると数千羽のオオヒシクイが福島潟周辺の水田で餌をとり、福島潟で越冬する様子を観察することができます。

 オオヒシクイは草食で、早い時期には刈り取られた稲穂から芽を出した二番穂の稲穂をついばむ他、厳しい冬になると顔を土中に潜らせて稲株を食べたりして冬を越します。このほか冬になるとコハクチョウやたくさんのカモなども潟を訪れますが、広大な福島潟周辺の水田などは、鳥類にとって安心して越冬することのできる条件が揃っているといえます。

 オニバスは、スイレン科の一年草で、以前は潟の至る所に生育していたといわれていますが、舟運や漁業への影響等により除去された結果、一時は福島潟では全く見られなくなってしまいました。ところが、昭和63年に福島潟で偶然オニバスが再発見されたことから保護の気運が高まり、現在では自然学習園の観察池などで見ることができます。
 このほか、福島潟には220種類以上の野鳥と450種類以上の植物が確認されており、四季を通じて水辺の自然や風景を楽しむことができます。湖畔に設置された「水の公園福島潟」にはレンジャーも常駐しており、詳しく楽しく解説してくれますので一度お出かけしてみてはいかがでしょうか。 水の公園福島潟HP http://www.pavc.ne.jp/~hishikui/


《太田小学校の取組み》
 ミュージカルの舞台となった新潟市立太田小学校の先生と子どもたち、そして地域を巻き込んで進められた「太田の森構想」の取組みについてご紹介します。
太田の森構想
 太田小学校では、平成10年度から続けてきた福島潟活動の体験から、子どもたちの自然に対する興味・関心が高まり、自然を見つめる感性も育ってきました。しかし福島潟は学校から2kmの距離があり、残念ながら子どもたちが気軽に観察したり、遊んだりできないフィールドでした。そこで、子どもたちがもっと身近に自然体験できる環境を学校の中に作れないものかと考えて、学校ビオトープ「太田の森構想」にたどりつきました。
 "学校に昭和30年代の福島潟の自然生態系を復元しよう!"、これまで行ってきた福島潟活動の成果は、干拓前の豊かな福島潟の自然を復元する活動「太田の森構想」に発展していきました。しかし、理想的な「太田の森」を創造するためには、自然生態系や植物・動物の専門家、ビオトープの専門家、福島潟の自然を守り育てようと努力しているボランティア団体の人々など、プロの経験と知恵、そして「地域を愛する想い」がどうしても欠かせませんでした。

 そこで専門家や地域の方を学校に招き、あるいは訪ねて子どもたちが直接プロの技術や地域の想いに接する機会を設けました。また子どもたちの熱心な活動と、興味・関心に輝く目、学校や地域の想いに、少しずつ地域の人々の共感が生まれ、人の輪が広がっていきました。このようにして、官・学・社・民によるプロジェクトのネットワークが生まれました。そしてこのネットワークの支援により、子どもたちは夢に向かって活動をスタートさせたのです。


ホタルの舞う学校へ
 子どもたちは活動の中で、旧豊栄市全域で一斉に行われた「ホタル生息調査」の結果、この20年くらいのうちにホタルの数がめっきり少なくなってしまった事実を知り衝撃を受けました。「なぜホタルがいなくなったのだろう?」。子どもたちは農業の苦労と技術の発展、私たちの暮らしが快適になる代わりに身近な自然が失われていった事実を知りました。そして「ホタルが飛ぶのを見てみたい!」。子どもたちの声は次第に大きなものとなり、福島潟にホタルを呼び戻そう!太田小学校にもホタルの舞うビオトープを作ろう!と身近な自然に目を向ける取組みとなっていきました。

 ホタルを復活させるためには、どんな環境を復元すればいいんだろう?子どもたちは専門家や地域の自然愛好家などとの関わりの中で、いつも緩やかに流れている水や餌となるカワニナ、ホタルがさなぎになるために必要な柔らかい土の土手に薄暗い夜を醸し出す森、など様々な環境の要素が必要であることを学びました。幸い学校には、雨降りの時だけ水の溜まる「ときどき池」や桜の大木がありましたので、この資源を活用してホタルの舞う「太田の森」を作ることとなりました。
 しかし、森を作ることで周辺の田んぼに太陽が当たりにくくなって米がとれなくなる、とか、街の光を遮らないとホタルが飛んでいってしまう、といった課題に直面しました。こんな時は地域が中心となって子どもたちと話し合い、問題を解決していきました。


ホタル水路の様子(H24)

ときどき池の様子(H24)
 またプロジェクトの実施にあたっては資金が限られていましたので、「お金がない時は知恵を出せ、汗をかけ」の合い言葉のもと、それぞれの役割を精一杯こなすことにしました。これが結果として自ら考え、行動する素地を作り、多様な個性や専門性が連携することとなりました。

ホタルの水路づくり

できる作業は率先
 子どもたちが考えたホタル水路や森の原案をもとに地域や専門家が計画を立案しました。そして子どもたち、学校、地域、専門家による作業が始まりました。子どもたちも自分でできることを率先して探し、行動しました。 

地域の大人も協力

水路の細かい形にこだわる
  このような活動を継続的に行い、無事「太田の森」は完成したのです。そして福島潟周辺でわずかに生息しているホタルを大切に飼育している地域の方からホタルの幼虫を分けて頂き、しばらくは見守る日々が続きました。

ホタル水路の完成

専門家からの指導
  ホタル水路が完成した翌年の6月のある晩、未だ若い木に一匹のホタルが光を放っているのが発見されました。よく見ると草むらの中からも光が見えます。そうです、ホタル水路に話した幼虫が冬を越し、成虫になって舞ったのです。
 このようにしてホタルが舞う学校が誕生したのです。

 太田の森と子どもたち
 春から秋にかけて、晴れた日には毎朝たくさんの子どもたちが池の周りに集まってきます。朝学習前のひと時をここで友達と語りながら過ごし、休み時間には1年生の子どもたちはタモ網を理科室から持ち出してドジョウやメダカを捕まえています。各学年の教室の水槽にはいろいろな生き物で賑やかになりました。子どもたちの会話にもビオトープの生物のことがよく話題になり、魚博士に植物博士、昆虫博士も何人もいました。友達と鬼ごっこをするときも、一人でぼんやりとするときも、子どもたちは池の周りにいます。秘密基地を作るのだと木の枝を集め、桜の木に登っている子どもたちもいて、子どもたちの木登りは、いつしか太田小学校の名物となりました。

太田の森:カルガモが巣を設けた

太田の森で遊ぶ
  自然の中にいると何だか心が落ち着いてくるものです。人工物に囲まれ、人間関係の中でストレスを感じている子どもたちにとって、この太田の森は格好の遊び場となり、心のオアシスとなっていました。

 「オタマに足が生えたよ」「メダカの赤ちゃんが産まれたよ」「ミツガシワの花が咲いたよ」日々変化し、成長を続ける自然の当たり前な姿に子どもたちは感動し、好奇心をいっそう駆り立てられていくことがよく分かります。トンボが卵を産んでいる様子や、季節が来れば花を咲かせる水生植物の姿に、子どもたちは感性豊かに反応していきました。

 太田小学校は田園地帯に囲まれた学校ですが、残念ながらここで育った子どもたちも自然体験は乏しかったのです。身近な自然が校地内にあることで、子どもたちは自然とのかかわりを日々の遊びを通して深めることができたのでした。自然の面白さと不思議さに触れ、子どもらしい感性で興味・関心を高めていきました。学校でバッタを捕まえ、教室でヤゴを飼って羽化させるなど、幼少期にこうした自然体験をした人とそうでない人との心の原風景が違うのは当たり前のことでした。人間の生き方の基礎・基本を培うこの時期に自然と豊かに触れ合い、生命の神秘と真実とに出会った子どもたちは、眠っていた感性が呼び覚まされる体験をしました。


禿げ山に植栽

植栽後の水やり

太田小学校の今
 太田の森構想から10年以上経過しましたが、わずかながらホタルが自然発生するようになりました。例年6月下旬になると、学校の校庭でホタルが舞う様子を観察することができます。また太田小学校では地域をあげてホタル祭りを開催するなど、人が変わり、時代が変わった今でも太田の森は大切にされています。

今でもホタルが守られている

鬱蒼とした太田の森(10年経過)



《干拓の歴史》
 水と土に恵まれた新潟は、裏返して言えば水害との戦いの連続でした。もともと阿賀野川は、現在の新潟市沼垂地区の先で信濃川と合流し日本海に注いでおり、この頃の北区(旧豊栄市)のほとんどは沼地でした。
 8代将軍徳川吉宗の頃、享保15(1730)年に新発田藩は排水を良くするために阿賀野川松ヶ崎地区に放水路の工事を行いました。これは日本海の手前で砂丘に突き当たり左に大きく曲がった所をまっすぐ日本海に水を流すための工事です。この工事によりずいぶんと水はけが良くなったといわれました。


 ところが、翌年春の雪解け水によりこの放水路が拡大して、松ヶ崎放水路が阿賀野川の本流となりました。工事当初の目的とは別に信濃川と阿賀野川は分離されることとなったのです。ちなみに阿賀野川と信濃川を結ぶ通船川は、過去の阿賀野川の名残です。
 

 阿賀野川が直接日本海に流れ下ることとなった結果、福島潟周辺の沼地の水面が約2m低下し、3,800haもの土地ができたといわれています。そしてこのことが福島潟周辺に葛塚、太田、早通といった集落を発展させ、干拓を推し進める要因となりました。
 なお干拓に手柄を立てた新発田藩家老の溝口内匠は、北区文化会館近くに100haもの土地を譲り受け、現在の稲荷神社もそのころ移築したそうです。

 


 
  福島潟干拓の先駆者は、柏崎出身の山本丈右衛門です。彼は、宝暦4(1754)年に江戸幕府から開発の許可を得ると、新太田川や新井郷川などの改修工事を次々と行い、太田興野新田など約189haを干拓しました。その後、寛政元(1789)年からは、水原の代官所から指示を受けた市島徳次郎など大地主十三人衆が福島潟干拓を行いました。さらに、嘉永5(1852)年から斎藤七郎次永冶が受け継ぎ、明治20(1887)年からは、弦巻(つるまき)家が行いました。
 明治44(1911)年には市島家が念願であった福島潟の干拓権を手に入れ、「山倉囲い」とよばれる干拓を行いました。これは、潟端に囲いの土手を築いて、その中にモミ殻や泥土を埋め立て、水田にしていく方法です。
 このようにして福島潟は、明治時代末期には当初の10分の1程度まで開拓されました。
 この時期までの干拓は、藩や大地主によるものばかりでしたが、第二次大戦後の農地解放により田畑が農民に売り渡されると、太田地区の農民の間に「自分たちの土地は、自分たちの努力で得ていこう」という気運が高まり、ついに昭和30年、黒山潟が太田地区の農民によって干拓されました。
 当時は排水機場も大型の建設機械もなく、米づくりは常に水との戦いでした。胸まで浸かった田植えや阿賀野川や加治川の洪水による土砂の流入など、当時の米づくりは今では考えられないほどの苦労の連続でした。
 
  ミュージカルでは、黒山潟干拓に深く関わった先人達が登場し、干拓に臨む心意気や力を合わせて取り組むことの大切さを教えてくれます。



現在の黒山潟干拓地
 
  その後、福島潟の最終的な干拓は昭和41(1966)年から始まった国営干拓事業で、当時は残された約400haの沼地全てを干拓する計画でしたが、その年の7月17日水害、さらには翌年の昭和42年7月17日羽越豪雨と、連続して襲った水害のため、干拓の計画が縮小され昭和50年に完成しました。
 私たちが現在眺めている福島潟は、芦原の國を想起する自然景観が広がっており、国の天然記念物であるオオヒシクイやオニバスなど、貴重な動植物が数多く残る水辺として多くの市民に親しまれていますが、過去には大変多くの苦労があったことも忘れずにいたいものです。
 
  ※黒山潟干拓の場所は、ビュー福島潟と太田小学校の間の水田地帯です。現在はほ場整備が進み、
   豊かな水田地帯が広がります。


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